街を潤す経済の循環
馬事産業の発展は、膨大な人・モノ・金の動きを生み出しました。全国から馬喰(ばくろう)や軍関係者が集結した「馬市」は、大正期には年4回開催される規模を誇りました。
競り市当日ともなれば、近郊から集まる馬で街道は埋め尽くされ、蹄鉄屋、馬具鍛冶、獣医といった専門職から、飲食店や宿泊施設に至るまで、街全体がお祭りのような活況を呈しました。
馬検場
馬町(うままち) 寛永盛岡図に新馬苦労(ばくろう)丁とあり。万治元年(1658年)に新馬町(しんうままち)と改めた。後に馬町と改め。さらに文化9年(1812年)に馬喰(ばくろう)町と改められたとする説と、そのまま馬町とされたとする説がある。
馬の売買が行われていたことが由来。当町では万治元年に馬のせり市が行われており。宝永7年(1710年)。藩命により駄馬の売買は当町のみで行われることとした。当初。馬市は。歳市として毎年12月の9日。19日。29日の3回開かれていた。
明治3年(1870年)。民部省養馬懸出張所が設置されたが。産馬事業の民有移管により。同14年(1881年)。岩手県産馬事務所が創立された。同事務所が明治23年(1890年)に改組して。盛岡産馬畜産組合が誕生する。馬町馬検場を中心とする馬市は。同45年(1912年)まで行われ。その後。馬検場は新馬町(現松尾町)に移った。
『明治大正昭和 岩手県の100年物語』より抜粋
岩手の馬市と騎兵旅団
紺屋町、肴町、油町などとともに、馬町(もとは馬喰町)という旧町名があるのは、いかにも「南部盛岡」の城下町らしい。馬町。それは藩制時代以来の馬市の開かれる町だった。馬を商う馬喰業者が二〇軒も三〇軒も軒を並べ、秋の馬市の頃ともなれば、周囲一帯は土ぼこりと馬の糞尿の異様な臭気に包まれた。
何しろ、周囲の道路は近郷から集まった馬で埋めつくされ、人間の方が馬の尻の間を縫って歩くしかない状態だったからだ。馬町は盛岡の歓楽街「花柳街」)の八幡町にも近く、家族中で馬をひいて集まる近在の老若男女で祭りのような賑いをみせた。
売られゆく愛馬と別れをおしむ風景は随所にみられ、軍国主義の風潮の中で「愛馬精神」として宣伝もされたが、家族総出は、馬代金の収入にあやかろうとする家族の期待と、親父の放蕩防止の目的でもあったという。馬の取引きは、普通あけ二才駒が中心である。それに、一部壮馬が加わったが、それは軍用買上げが主体だった。
オセリ(馬市)ともなれば馬町の馬喰屋は一変して各地から集る馬喰連中の宿屋に早替りする。大きい家では七八〇人も泊った。馬は屋敷内にもつながれた。馬連れ宿泊である。彼等に混って、軍刀をさげた軍馬購買官、種馬を買い上げる農林省のお役人がいた。彼等は肩で風を切る勢いで、市民から必ずしも共感をえていなかったが、何しろ農耕用馬の二倍も三倍もの値段で買上げる上得意先であったことから、その割には丁重に取扱われたという。
現在の馬検場跡(盛岡馬っこ文化伝承広場)
盛岡馬っこ文化伝承広場 歌碑
盛岡市の下厨川に騎兵第三旅団(第二三、二四連隊で構成)が創設されたのは、明治四二年七月のことである。もちろん、この旅団の設置が地元の軍馬購売数をその後急速に増加させたということはない。しかし、地元民にとってみれば、この旅団は、農林省の種馬所や陸軍の軍馬補充部などの施設とともに、馬産岩手の一つのシンボル的存在であった。
当時の盛岡市内の商店、飲食店、花柳街は、これらの軍人と高等農林の生徒と馬市でもっていると噂されるほどであった。だが、軍馬の購買頭数やセリ価格には、維新以後の数多い戦争の影が色濃くおとされている。日露戦争時の軍馬買上げ頭数の急増、昭和農業恐慌期のセリ価額の下落とその後の軍馬需要の後退(背景に、軍の装備の馬から車輌への転換がある)などがその好例である。
騎兵第三旅団も昭和一〇年の満州チャムスに移駐後しばらくは、「騎兵隊」として国境警備やノモンハン事件(昭和一四年)に参加するが、軍装備の近代化に伴って、二〇年には遂に装備から馬を外され、同時に「騎兵」の名も永久に失った。
秋の馬市が終れば盛岡八幡宮の例大祭だった。”祭りが終れば寒くなる”といって、馬市と稔りに期待をかけた農民の夢も今は昔の物語りとなりつつある。(小川 信)





