スズランの香りに包まれたもう一つの真実
故郷・薮川地区の歴史を編み直す
1960年代半ば、岩手県盛岡市の薮川地区で始まった活動は、日本の学校給食の歴史を大きく変えた出来事として知られています。当時、「日本のチベット」と呼ばれるほどの極寒と冷害に見舞われていた薮川地区では、多くの子供たちが弁当を持参できず、昼休みには空腹を紛らわすため水道水を飲んで過ごす「欠食児童」が深刻な社会問題となっていました。
この惨状を毎日新聞の記者が報じたことが、すべてのきっかけとなりました。記事を読んだ盛岡ライオンズクラブが、東京の日本橋ライオンズクラブなど首都圏のクラブに協力を要請したことで支援の輪が広がりました。
単に寄付を受けるのではなく、「子供たちが山に自生するスズランを摘んで送り、それを都市部の人々が買い取って給食資金に充てる」という「愛の交換方式」が誕生しましたこの活動は時の佐藤栄作首相をも動かし、「教育が義務なら、健康に育つための栄養も義務であるべき」と、国が5億円の予算を投じて全国のへき地給食を整備するきっかけとなりました。
佐藤栄作(総理大臣)
すずらん
美談の陰に隠された「切り取り」の悲劇
しかし、当事者としてその渦中で育った私には、今こそ伝えなければならないことがあります。当時の報道は、現代のSNS社会における「切り取り」にも似た現象を引き起こしました。そこには、語られてこなかった「構造的な悲劇」が隠されているのです。
記者は良かれと思って筆を執ったのでしょう。しかし、この土地が持つ特別な歴史情報が表に出なかったがゆえに、記者にとっての薮川地区は、近代化の先駆者としての姿ではなく、高度経済成長から取り残された「陸の孤島」として映っていたと思われます。報道が「飢えた子を救う」という点に特化したため、あまりに偏った悲劇の物語として消費されてしまったのです。
行政の誤算が生んだ「人災」としての冷害
この冷害被害の拡大は、戦後の食糧開拓において高原の気候風土を無視し、里と同じ稲作や野菜作りを強いた行政の誤った指導が招いた結果でした。
当時は外山・薮川地区の輝かしい歴史が世に知られる術はなく、その結果、全国の人々は「何もできない場所で住人が苦しんでいる」という誤った前提でこの地を定義しました。この強烈なイメージが、150年にわたる重層的な歴史を上書きし、「貧しい集落」という風評被害の種を蒔いたのだと私は思っています。報道が生んだ烙印は、60年以上経った今もなお世間の人々に刷り込まれています。
もし記者が「ここは明治維新の近代畜産発祥の地である」という誇り高き事実を知り、「これは天災ではなく、土地の質を読み違えた行政の敗北ではないか」と論じていたら、物語は全く違う形になっていたはずです。
産業と景観を破壊した「三重の失策」
「スズラン給食」が残した負のイメージに加え、さらに「三重の政策失敗」という人災がこの地の魅力を奪っていきました。一つ目は、「無計画な植林事業」です。高度成長期、建材不足を理由に行政は植林を推進しました。先祖が苦労して切り拓いた貴重な放牧地を潰してまで植林を推進しながら、結局は安価な輸入材に押され、手入れもされず売ることもできない木々が放置されました。
無計画な植林事業
高度成長期の建材不足
二つ目は、「自然公園という名の監獄」です。1970年代、薮川地区は『21世紀遷都論』や『日本列島改造論』により、一時的なバブルに沸きました。しかし、この夢を打ち砕いたのが1961年に指定されていた「外山早坂高原県立自然公園」でした。
荒れ果てた外山早坂高原県立自然公園
田中角栄(総理大臣)日本列島改造論
住民は「観光で地域が活性化する」と信じて同意しましたが、現実は「保護」という名の厳格な規制だけが残り、自分の土地であっても木一本切ることすら許されない事態となりました。
かつて未開の地を切り拓き、人が入り、牛や馬が闊歩していたことで、長い間眠っていた高原植物が芽を吹き美しく花開きました。しかし現在は間伐もできず、熊笹が生い茂る有様です。税金が投入されながらも誰一人訪れない、名ばかりの「自然公園」がそこに残されました。
三つ目は、「畜産の聖地を襲った自由化の荒波」です。昭和40年代に入り、ようやくこの地本来の適地産業である畜産業に本腰を入れ始めた矢先、さらなる悲劇が襲いました。アメリカ産を中心とした安価な牛肉輸入の大幅増という荒波に飲み込まれたのです。
これにより国内価格は暴落し、懸命に経営を軌道に乗せようとしていた農家は次々と経営破綻に追い込まれました。この急激な市場開放が、地域再生の希望を根底から覆したのです。
真の姿を取り戻し、次世代へ繋ぐために
こうして、この地区は「何もない、何もできない場所」として定着しました。一度も現地を訪れたことのない人々が、当時の記事だけを鵜呑みにして「何もない、何も生まれない場所」という負の評価を下し、それがこの地の美しい景観や価値を今も覆い隠しているのです。
私自身、賢治の足跡を辿り、歴史を紐解く中で見えてきたのは、決して「何もない場所」ではなく、「豊かであったはずの歴史を、誤った情報によって奪われた場所」であるという事実です。
多くの人に伝えたいのは、切り取られた悲劇の物語ではなく、不適切な行政指導、無計画な植林、そして一方的な報道によって、この地の真の価値が奪われてきたという真実です。今こそ、近代畜産の聖地としての正当な評価と、この地の真の美しさを取り戻さなければならないと思っています。









