新山 荘輔(にいやま そうすけ)安政3年(1856)~昭和5年(1930)
| 安政3年(1856) | 山口県阿武郡大井村(現:萩市大井)に生まれる。 |
| 明治13年(1880) | 駒場農学校獣医科(後の東大農学部)卒業。下総種畜場勤務。下総御料牧場の初代場長として34年間務めた。種畜の改良・繁殖・育成等を通じ飼養管理、治療法等に尽力した事から『日本獣医学の生みの親』と言われている。 |
| 明治18(1885) | 宮内省御用掛に任命、侍従の藤波言忠子爵の随行して欧米に渡る。各国の畜産業の視察と研究に没頭する。明治21年(1888)宮内省下総種畜場は「下総御料牧場」と改称。下総御料牧場第五代場長に任命される。同時に北海道新冠御料牧場長を兼務。 |
| 明治24年(1891) | 岩手県外山御料牧場長に任命され下総・新冠・外山の御料牧場を兼務。明治32年(1899)に小岩井農場の経営が岩崎久弥に引き継がれると主馬頭の藤波言忠を相談役に、経営監督を新山荘輔に依頼。 |
| 昭和5年(1930) | 11月7日鎌倉の別荘にて永眠。七十四歳の生涯を閉じる。 |
出生から少年時代
新山荘輔は、幕末の安政三年(一八五六)に、長州佐波郡三田尻村(現在の山口県防府市)の白根家に生れ、後、新山家の養子となっている。養子先の新山家は現在の山口県萩市である。(白根家の実家を継ぐ曽孫の黒川簡氏による)
荘輔は、幕末から明治維新にかけて少年時代をすごしたわけである。その頃、「馬の腹の下を通り抜けて見る」と言って、馬に蹴られたというエピソードがある。その傷跡は生涯、首に残っていたと荘輔の長男、春雄氏が語っている。幼少の頃より、馬に親しみ関心を持っていた様子が窺える。
獣医になる動機
二十歳の時、大阪外国語学校を卒業。当時、外国人教師は荘輔に東京の農学校に入学して農学を修行するよう勧めた。しかし、荘輔は判断がつかず、上京して実兄の白根鼎三に相談、更に埼玉県令をしていた縁戚の白根多助氏を浦和の官舎に訪ねて相談した。
荘輔の意は農学にあったが、「貴様等が農学を修めるなどとは以ての外だ。(中略)夫れより獣医学を修業すべし」と極めて厳しい命令であった。荘輔は生母や実兄にも相談したが皆不賛成。再び多助氏に「虎の門の工部学校(東京大学工学部の前身)に入りたい」と言ったが、多助氏は頑として承知せず、あくまでも獣医学をやれとのこと。「これ程まで言い聞かせても納得できぬ者は今後一切かまわぬ、左様心得ろ」と言い切られた。
荘輔は不性無性で獣医学を学び始めたが一年もする内に段々興味も出てくるようになり、本気で獣医学を習得する事となった。「今日に至りて見れば白根老人に感謝して已まぬのである」と荘輔自身の談話として記録されている。(『明治大正馬政功労十一氏事蹟』帝国馬匹協会より)

