成熟する花街文化と「外山節」の変遷
明治から大正にかけ、岩手の経済を牽引した馬産振興は、盛岡の地に独自の華やかな文化を花開かせました。城下町の風情を色濃く残す紺屋町や肴町と並び、藩政時代から馬市が立つ「馬町(うままち)」は、まさにその熱狂の中心地でした。
秋の「オセリ(馬市)」ともなれば、馬町一帯の宿泊施設は各地から集まる馬喰連中の宿屋へと一変し、一つの宿に70、80人がひしめき合い、屋敷内には馬が繋がれる「馬連れ宿泊」で溢れかえりました。
当時の盛岡市内の商店、飲食店、宿泊施設、そして花柳街は、「これらの軍人と役人、高等農林の生徒、そして馬市でもっている」と噂されるほどの賑わいを呈していました。 莫大な富と、軍・官・学・農が入り混じる独特の活気が、夜の盛岡を支える花街文化をより成熟させていったのです。
二つの花街:幡街と本街
現在の盛岡八幡宮
AIによるイメージ画像
この莫大な経済力を背景に、中津川を挟み、盛岡の花街は「幡街(ばんがい)」と「本街(ほんがい)」の二つに分かれ、それぞれが競い合うように芸を磨いていました。
主に馬市で大金を手にした馬喰や商家のだんな衆が闊歩した社交場。期間中、周辺の宿泊施設は各地から集まる馬喰たちの宿へと一変し屋敷内まで馬が繋がれる「馬連れ宿泊」で溢れかえりました。
官庁街に近く、宮内省、政府の要人、軍関係者や政治家が主に利用しました。軍刀を下げた軍馬購買官や、種馬を買い上げる農林省の役人、そして後にエリートとして活躍する高等農林の生徒たちが集い、格式高く知的な気風が漂っていました。
競馬場を彩る芸妓と「産馬文化」
写真提供:盛岡商工会議所
写真提供:盛岡商工会議所
この文化は座敷に留まらず、明治36年に開設された上田の旧盛岡競馬場(黄金競馬場)へも波及します。当時の競馬場は近代社交の最前線であり、馬主や名士たちが「お抱えの芸妓」を伴って観戦することは、一流のステータスとされました。
華やかな衣装で観覧席を彩る芸妓たちは、単なる客ではありませんでした。レースの合間には、馬産の活気を表現した踊り「産馬かっぽれ」を披露し、馬産地ならではの余興で場内を沸かせました。こうした交流の中で、地元の民謡と芸妓の芸事が混ざり合い、独自の「競馬節」や座敷唄が醸成されていったのです。
産馬かっぽれ
名馬の産地として知られた盛岡の「馬文化」と、軽快な江戸の大衆芸能が融合して生まれた「産馬(さんば)かっぽれ」。三味線や太鼓の小気味よいリズムに合わせ、「かっぽれ、かっぽれ!」と威勢よく踊る盛岡の伝統的なお座敷芸です。踊りの中には、馬の手綱を引く仕草など、馬の産地ならではの粋な振り付けが随所に散りばめられています。愛馬の無病息災や五穀豊穣を願う、活気とユーモアに溢れた盛岡自慢の賑やかな踊り唄です。
盛岡名物 産馬かっぽれ(其の一)

活歩れ(くわっぽれ)〱 麦茶(むぎちゃ)で活歩れ
豆湯(まめゆ)でシッポリヨイトナヨイ〱
廣(ひろ)い牧場(まきば)に駿馬(しゅんば)が見ゆる
サーエヨイトコリヤサ あれは
南部(なんぶ)のヤレコレコレハノササヽ
サッサッサ改良馬(かいりょうば)
サテ改良馬 改良じーゃ
エーサーエヨイトコリヤサ

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盛岡の名物である「馬」をテーマにした、かっぽれ(お座敷の賑やかな踊り唄)の第一番です。
さあ、元気にステップを踏んで踊ろう!麦茶を飲んでノリよく踊ろう!
お豆のお湯(くまゆ=豆茶)でも飲んで、しっぽりと艶っぽく、いい気分でいこう。
見渡す限り広々とした牧場に、立派で足の速い名馬(駿馬)の姿が見えるよ。
(サーエヨイトコリヤサ)
あれこそが、我が南部(岩手県地方)が誇る、
(ヤレコレコレハノササ、サッサッサ)
血統を良くした素晴らしい「改良馬」なのだ。
(サテ!)さあ、これぞ自慢の改良馬。本当に見事な改良馬だね。
(エーサーエヨイトコリヤサ)
① 「盛岡・南部」と「馬」の深い関係
南部地方(現在の岩手県を中心とした地域)は、古くから「南部駒(なんぶこま)」と呼ばれる名馬の産地として全国的に有名でした。歌詞にある「駿馬(しゅんば)」や「牧場」という言葉は、盛岡周辺に広がる豊かな馬の育成環境を表現しています。
② 「改良馬」とは?
明治時代から大正時代にかけて、日本は軍事や産業のために、在来の和馬に海外の優れた品種を掛け合わせて、より大きくて強い馬を作る「馬の改良」を国を挙げて進めました。岩手県はその大中心地であり、ここで生まれた馬は「改良馬」として高く評価され、地域の大きな誇りでした。この歌詞は、「うちの地元の改良馬は日本一だ!」という自慢と喜びを賑やかに歌い上げているのです。
③ 「豆湯(くまゆ)」というお座敷の風情
歌詞にある「豆湯」は「くまゆ」と読まれており、炒った大豆などを煎じて作った香ばしいお茶のことです。麦茶と並んで、夏の暑い時期やお座敷の席で喉を潤しながら、粋に、そして「シッポリ」と艶っぽく踊るかっぽれならではの賑やかで小粋な情緒が描かれています。
④ 盛岡の花街と絵葉書の文化
画像最下部に「(花名の盛岡) 幡街(八幡街) 駒蝶 さか江」とあるように、当時の盛岡の八幡町(花街)を代表する芸者衆が総出でこの産馬かっぽれを踊り、地元の名産である馬産を華やかに盛り上げていたことが分かります。左端にある「日の出函ハガキ部発行」という文字からも、これが当時の盛岡のお土産やPR用として大々的に作られた絵葉書シリーズの記念すべき第一弾(其の一)であったという背景が鮮やかに伝わってきます。
盛岡名物 産馬かっぽれ(其の二)

あれは南部(なんぶ)のヤレコレコレハノサ
サヽサッサ〱 改良馬(かいりょうば)じゃヱー 改良じゃ
發展(はってん)じゃ 明日(あす)は
牧場(まきば)の草刈(くさかり)で
小束(こたば)にひッからがへて
チヨトつんだ積(つ)んだサヽサ
つんだ秣(まぐさ)に つんだ秣に屑(くず)はない
オセヽノコレハイサ

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盛岡の名物である「馬」をテーマにした、かっぽれ(お座敷の賑やかな踊り唄)の第二番です。
あれこそが、我が南部(岩手県地方)が誇る、
(ヤレコレコレハノサ、サ、サッサッ)
素晴らしい「改良馬」なのだ、これぞ本物の改良馬だ。
これからもっともっと発展していくぞ!
明日は広々とした牧場へ行って、馬たちのために草刈りだ。
山のようにどっさりと、刈った草を(馬車や背中に)引っかけて運ぼう。
チョイと、たくさん積み上げて、たくさん積んだよ。
(サッササ!)
そうして一生懸命に刈って積み上げた草(秣)には、無駄なもの(屑)なんて一つもない。
すべてが馬を育てるための宝物んだ。
さあ、それいけ!もっといこう!
(オセセ、ノコレハイサ)
この二番の歌詞は、一番で歌われた自慢の「改良馬」を、地域の農家や牧場の人々がどのように大切に育てていたかという「日常の営みと愛情」が具体的に描かれています。
① 馬のための「草刈り」という大仕事
良い馬(駿馬や改良馬)を育てるためには、栄養のある新鮮な草が大量に必要でした。歌詞にある「明日は牧場の草刈で」というフレーズからは、翌日の仕事に向けて「さあ、明日は馬たちのために頑張るぞ」という、活気ある牧場の風景や、労働を前向きに楽しむ人々の気持ちが伝わってきます。
② 「つんだ積んだ」の賑やかさ
刈り取った大量の草を、山のように高く積み上げていく様子を「つんだ積んだ」とリズミカルに表現しています。この言葉の繰り返しは、作業のテンポの良さや、収穫(草刈り)がたくさんできたことへの喜びを表しています。
③ 「つんだ秣(まぐさ)に屑(くず)はない」に込められた想い
秣(まぐさ)とは、馬や牛のえさにする草のことです。「一生懸命に刈って集めて積み上げたエサの草には、無駄なものは一切混ざっていない」という意味です。これは、ただの草であっても、大切な改良馬を大きく育てるための貴重な糧であるという、馬に対する深い愛情と、自分たちの仕事に対する誇りが込められた、とても温かい表現です。
④ 掛け声「サヽサ」の持つリズム感
歌詞にある「サヽサ」は、踊りやお囃子のテンポを良くするために繰り返される、かっぽれ特有のリズミカルな掛け声(サッササ)を意味しています。純粋にお座敷を盛り上げる小気味よいステップや手拍子の合図として解釈することで、この唄が持つ本来の軽快なノリがより鮮明になります。
一番の「名馬の自慢」から一歩踏み込み、二番では「その名馬を育てるための豊かな自然と人々の愛情」を歌う、非常にストーリー性のある構成になっています。衣装の裾や画像最下部に見える「幡街(八幡街)」の踊り手である「千代葉」や「豆千代」といった名も、当時の盛岡の花街(お座敷文化)の華やかさを今に伝えています。
盛岡名物 産馬かっぽれ(其の三)

飼糧(かひぞ)に珍(めづ)らしーい
コノナンデモセイ
一鹿毛(いちかげ)二青(におあ)三栗毛(さんくりげ)
連銭蘆毛(れんぜんあしげ)に鞍(くら)おいて
騎兵士官(きへいしかん)を乗(の)せ上げて
後(あと)から見(み)あげれァ 勇(いさ)ましーい
餘(あま)りサッサ
餘(あま)り見事(みごと)さに 餘り見事さに
共進會(きょうしんくわい)にだしたらァ オセヽノコレハイサ
逸物(いつぶつ)珍(めづ)らしーい コノナンデモセイ

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盛岡の名物である「馬」をテーマにした、かっぽれ(お座敷の賑やかな踊り唄)の第三番です。
(これほど見事な馬は)エサ(飼糧)をやって育てる甲斐がある、滅多にいない珍しい名馬だ。
さあ、どんなことでもやってみせろ!
良い馬の毛並みと言えば、一番に「鹿毛(茶色)」、二番に「青毛(黒色)」、三番に「栗毛(薄茶色)」。
さらに、美しい円い斑点模様がある「連銭蘆毛(れんぜんあしげ)」の馬に立派な鞍を置いて、
カッコいい騎兵の士官(将校)をその背中に乗せるのだ。
その姿を後ろから見上げると、なんと勇ましくて素晴らしいことだろう!
(余りサッサ!)
馬の体つき(体格)の見事さといったら、あんまり見事すぎて言葉にならないほどだ。
この馬を「共進会(馬の博覧会・品評会)」に出品したなら、
(それいけ、もっといこう!)
誰もが驚くほどの、滅多にない最高の「逸物(優れた名馬)」として大評判になるぞ。さあ、どんなことでもやってみせろ!
この三番の歌詞では、大切に育てられた「南部馬・改良馬」が、いかに美しく、勇ましく、社会的に高く評価されていたかという「晴れ舞台の姿」が誇らしげに歌われています。
① 「一鹿毛、二青、三栗毛」と「連銭蘆毛」
これは古くから日本に伝わる「優れた馬・美しい馬の毛並み」を順位づけした格言のような決まり文句です。特に「連銭蘆毛(れんぜんあしげ)」とは、灰色や白の毛並みに、まるで「連なった銭(コイン)」のような美しい円い模様が浮き出た非常に珍しく美しい馬のことです。その貴重な馬に鞍を載せるという、最高の贅沢と誇りが表現されています。
② 「騎兵士官を乗せ上げて」が示す時代背景
明治から大正期にかけて、日本の軍隊において「騎兵(馬に乗って戦う兵士)」は非常に重要なエリート部隊でした。その部隊を率いる「士官(将校)」が乗るための馬(軍馬)として、盛岡・南部の改良馬は最高峰のブランドでした。凛々しい軍人を背に乗せて颯爽と歩く馬の「後ろ姿の勇ましさ」を、地元の人々がうっとりと、また誇らしく見上げている光景が描かれています。
③ 「體り(からだつき)見事さに」と「共進會(きょうしんかい)」
共進会とは、全国や地域から自慢の馬を集めて、その体格や優秀さを競い合う「品評会(展覧会)」のことです。歌詞で「體り(からだつき)見事さに」と歌われているように、飾り物で着飾るのではなく、馬自身の骨格や筋肉といった「馬体そのものの素晴らしさ」が審査の対象でした。「この抜群の体格の馬を共進会に出したら、間違いなく誰もが認める一等賞(逸物)だ!」という、育て手の絶対的な自信が歌われています。
一番の「名馬の誕生」、二番の「愛情深い育成」を経て、この三番で「社会へ羽ばたき、軍や品評会で絶賛される名馬の晴れ姿」へとつながる、非常にドラマチックな展開となっています。踊り手の裾や写真最下部に見える「幡街(八幡街)」の踊り手である「小六」や「長蝶」といった芸名からも、当時の盛岡の花街がお座敷を挙げて地元の馬産を応援し、誇りに思っていた空気感が鮮やかに伝わってきます。
盛岡名物 産馬かっぽれ(其の四)

年々(ねんねん)せい 歳々(さいさい)せい
年々(ねんねん)すりやこそ 進歩(しんぽ)する
馬政局(ばせいきょく)から御褒美(ごほうび)じゃ
進歩(しんぽ)の御褒美(ごほうび)に何(なに)もろた
金銀(きんぎん)メタルに奬勵金(しゃうれいきん)
目出(めで)たいぞ 嬉(うれ)しーいぞ
名馬(めいば)をつくれよ
國(くに)のため「萬歳(ばんざい)」

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盛岡の名物である「馬」をテーマにした、かっぽれ(お座敷の賑やかな踊り唄)の第四番(完結編)です。
来る年も、来る年も、毎年まいにち。
こうして毎年まじめに努力を重ねていくからこそ、(馬の品質が)ますます進歩していくのだ。
なんと、国(馬政局)から直々に素晴らしいご褒美をいただいたぞ!
馬を立派に進歩させたという、その名誉あるご褒美に、一体何をいただいたと思う?
キラキラ輝く金メダルや銀メダル、それにたっぷりの奨励金(ボーナス)さ!
これほどめでたく、嬉しいことはないじゃないか。
さあ、これからもみんなで力を合わせて、素晴らしい名馬を育てつくろう。
誇り高き我が国のために、みんなで万歳を叫ぼう!「万歳!」
この四番の歌詞は、シリーズのフィナーレにふさわしく、地元の努力が国に認められ、最高の栄誉を手にした喜びとこれからの意気込みを大爆発させて歌い上げています。
① 「馬政局(ばせいきょく)」という言葉の歴史
「馬政局」とは、明治から大正時代にかけて国(内閣)に設置されていた、日本の馬の改良や増殖をコントロールする大変権威のある国家機関です。当時、岩手県の盛岡周辺(外山牧場をはじめとする各牧場や農家)は、この馬政局の計画において極めて重要な拠点でした。歌詞の中で「馬政局から御褒美じゃ」と歌われているのは、地元の馬産への取り組みが国家レベルで最高峰の評価を受けたという、最大の誇りを表しています。
② 「金銀メタルに奬勵金」
共進会や品評会で見事に優秀な成績を収め、国から金メダル(金メタル)や銀メダル、そしてさらなる馬産の発展のための資金(奨励金)を授与されたシーンです。努力が最高の形で報われた農家や関係者たちの、「もろた(もらった)!」という無邪気でストレートな嬉しさが民謡らしくリズミカルに表現されています。
③ 「國のため萬歳」にみる時代精神と花街の「同盟」
当時の馬産業、特に「改良馬(軍馬・農耕馬)」の育成は、地域の経済を潤すだけでなく、日本の近代化や国力を支える国家的な大事業(「国のため」)でもありました。自分たちの仕事が日本の発展に直結しているという強烈なプライドが、最後の「萬歳」という力強い締めくくりに結びついています。
其の一から始まったこの絵葉書シリーズは、この其の四で「国家からの表彰と万歳三唱」という最高のハッピーエンドを迎えます。左側の踊り手が持つ扇には躍動感あふれる「馬」の絵が描かれており、写真最下部には「菊次」「子なり」といった芸名が見えます。
また、最下部左端に「青森縣サタバハ(八幡)盛岡市」、右端に「(花名の同盟)」とあるように、この一大プロジェクトは盛岡のみならず、青森の八幡街など東北を代表する花街の芸者衆が「同盟(合同)」して地元の名産である馬産を応援し、大いに盛り上げていた当時の活気とネットワークの広さを今に伝える貴重なフィナーレとなっています。
「外山節」の進化 ― 野の唄から座敷の芸術へ
今や岩手を代表する民謡となった「外山節」は、まさにこの馬産振興の象徴である「外山御料牧場」の開拓期、野草の香る労働の中から生まれ、花街というフィルターを通じることで洗練された芸術へと昇華していきました。
外山小町と草刈り人夫の交流
明治24年頃、峻険な外山の地には、毎年秋になると薮川、巻堀、好摩、渋民といった近郷から200〜300人もの人夫が集まり、冬を越すための草刈りに励んでいました。その過酷な労働の場で、唄と踊りに秀で「外山小町」と謳われた二人の美女、「きち」と「ふゆ」が外山節の原型を作ったと伝えられています。
各地から集まった人夫たちが持ち寄った節回しや、古くから伝わる「萩刈り唄」などが交流の中で溶け合い、素朴ながらも力強い野の唄が形作られました。
お役人による洗練と「座敷唄」への昇華
当初の節回しは現在とは異なっていましたが、これを「芸術」の域へと高めたのは、御料牧場の官吏(お役人)たちでした。彼らが歌詞を整え、洗練された詞章を付け加えることで、労働歌は格調高い祝宴の唄へと昇華されていきました。
こうして整えられた唄は、やがて花街へと持ち込まれます。芸妓たちの手によって三味線の伴奏が加わり、座敷で歌い継がれることで、洗練された形へと磨き上げられたのです。
そして、昭和7年の武田忠一郎による採譜、昭和12年の大西玉子の協力による編曲・発売を経て、現在の「外山節」は全国へと知れ渡りました。外山の厳しい自然、馬にかけた人々の情熱、そして盛岡花街の粋が見事に融合して結実した、まさに岩手の魂の唄といえるでしょう。
悠久の歴史を物語る「行在所」
外山節の歌詞にも登場する「行在所(あんざいしょ)」は、各御料牧場に設けられた貴賓館を指し、皇族や国内外の要人が宿泊した場所です。この建物は、荒野を切り拓き、近代馬産の礎を築いた人々の誇りと、そこに集った官民の多様な階層が織りなした豊かな歴史を象徴しています。





